「 A New Translation=新訳」 にこめた、芸能としての映画へのこだわり

10月2 9 日に第2部公開が迫った劇場版『機動戦士Zガンダム U 』。誰もがあっと驚いた「恋人たち」というサブタイトルの発想は、どこから出てきたのだろうか? そして第2部へこめた想いには、どのようなものがあったのか? 原作・総監督の富野由悠季に、その考え方をうかがった。

●新訳にする、映画にしていく思想と構造

――今回、第2作目としてはどのようにして「新訳」をまとめようと思われましたか? 
特に「恋人たち」というサブタイトルにされた理由は?

富野 「恋人たち」というサブタイトルにしたのは、「人間関係の群像劇」としてまとめようと思ったからです。『ガンダム』というタイトルは強烈なので、戦争もの、ロボットバトルものという要素については強調する必要がありません。むしろ、映画館でわざわざ上映する作品ですから、それを少しでも払拭するような方向づけをしようとしました。

 前から『Z』をよく知ってる方は「そうか」と思われるでしょうし、知らない方もガンダム映画に「恋人たち」というサブタイトルがつくことを、きっと不思議に思うでしょう。そういう二重構造を作り上げて、「これは自分の知らない『ガンダム』かもしれない」と思わせたかったのです。広く観てもらいたいからです。

 第1部では「旧世代と新世代の出会い」を群像劇として描いたわけですが、今度は「同世代間の横のつながり」を描こうと考えました。それと映画のフックとして成立する言葉を考えたときに、仲間でも戦友でもないものにしたいと思いました。そうしたら、「恋人たち」というサブタイトルが、ほとんど自然に出てきたのです。

――三部作としてまとめるにはいろいろな方法論があると思いますが、今回はまんなかのパートをまとめるとき、どのように進められましたか?

富野 今回のエピソード群は、群像劇にまとめようとすると「一本線でまとまらない」という構成的な問題が見えてきます。いくつかのカップルの出会いが、全部並列に見えかねない危険性があるからです。『Zガンダム』は基本的に戦禍が拡大していくというプロットですから並列ではダメで、どのカップルの出会いをどう当てはめていくかという選択肢が命題となりました。テレビ版のときには、これほどまでにいくつものカップルが錯綜する関係性は見えていなかったと思います。それをダイジェストではなく、それなりの上昇性をもった構造にまとめることができたと自負しています。

――フォウ・ムラサメが中心になるのは当然だと思 っていたので すが、中間から後半にあれだけいろんな「恋人たち」が出てくるとは、予想がつきませんでした。

富野 プランニング段階では、自分としても予定外のことでした。作業に取りかかった段階で、テレビ版の『Zガンダム』がとても深い人間関係をもっていたということが見えてしまったために、今回のような構造になってしまった部分はあります。

 もっとも難物だったのはサラです。彼女はカミーユとカツの間に入り込んでいて、どちらかを都合よく出し入れすることができなくなったため、サラを中心にカミーユとカツを並列的に描かなければならなくなりました。特にアーガマにサラが捕らわれる展開では、コンテのまとめが難しすぎて「もうこの映画はやめよう」と思ったほどでした。映画を観ていただければわかりますが、テレビにはないチビちゃんとの関係を思いついたことで、ようやく突破できました。それまでは、「簡単にまとめてしまえば済む」などとはとても言えないほどのつらさがありました。

―― Zガンダムはもともと 情報量が多 い作品ですが、新訳としてまとめるためにどのような苦心があったの ですか?

富野 情報に関して言えば、まったく逆です。テレビは1話完結の戦闘ものにしているため、変に長くなっているところがあります。それを圧縮していく工夫を重ねると、テレビ版にはない要素をつぎ込む必要が出て来るのです。つまり、何を接着剤にするかということを考えます。サラが捕らわれるエピソードを選んだとして、そこからハマーン登場までもっていくにはどうするか……戦闘と戦闘の間を単純につないで積み重ねていく方法もあるかもしれませんが、人間の描写を確実に取り上げられるシーンを選んだほうが得だという取捨選択をしています。

 『ガンダム』というロボットものなら、ガンダムが活躍しているシーンだけをまとめていけばうまくいくとも思われがちですが、それでは絶対に映画になりません。人びとがどう絡んでどういう劇を展開しているか、そこにもっていかなければ劇として成立しませんし、そうしないと映画としておもしろくならないのです。

 テレビ版になかった接着剤としての例は、たとえばシャアとレコアの大人めいた芝居があります。そのとき、 20年前の説明以上のことをしていいのか悪いのかということはかなり考えぬきました。結局、20年前のファンにしても大人になっているわけですから、そうした人たちが改めて『Z』をご覧になるとき、普通の映画のように観られるような人物描写があるべきだと思うに至りました。実際、あのふたりの描写を入れることで、大人としての劇のレベルへカメラを持ちあげられて、全体のクオリティが高まったという手応えがありました。そうした作り方のスキルを手に入れられたのが、一番おもしろく、うれしいことでしたね。

 「 20年目の新訳をする」というのは、このようなことだと思っています。

――やはりこだわっておられるのは「映画にする」ということですか。

富野 「映画」という入れ物の容量は、広くて深いとあらためて思いました。新旧取り混ぜることもできるし、劇空間というものが組み方次第でかなり広大なものにできるという こと を、いろんな側面から思い知らされました。僕にとっての映画という媒体は、「ものすごく苛酷なものだ」という認識しかありません。本当に辛い作業だったのですが、だからこそ映画の仕事はおもしろいと思いました。

 素材はテレビ版のものを使っていますが、媒体の違いで1度で2クール分に相当する話をひとつに見通せるという構造の違いをすごいものだと感じました。辛い分だけすさまじい媒体だと思いますし、やはり映画はステキですね。

●新訳の 意義 と、今回のキャスティング

――今回、『Z』を新訳にしていく上で、 新 キャスティングについて富野監督の 意図を お聞かせください。

富野 映画とは「芸能の興行」だと考えています。芸能のもつ「やわらかさ」が表現のなかに入っていて欲しいので、若いキャラクターであれば基本的には若い声で演じてもらいたいという大前提があります。

 実をいうと『Z』を新訳にするとき、極端なことを言えばアムロやシャアも含め、すべてのキャスティングを変えたいと思っていました。復刻映画にするつもりはまったくありませんし、セリフも書き直していますから、その時代に見合ったシャアとアムロが見つかれば、新しい役者に演じていただきたいと、今でも思っています。ただし、ファーストガンダム以来受け継いでいるキャラクターについては、 25年以上という歴史があります。アニメは声だけであるがゆえにオリジナルのキャストを使い得ていますが、それには不幸な部分もあるかもしれませんし、正直言えば妥協している部分もあります。

 一方、フォウ・ムラサメのようなゲスト的なキャラクターに関して言えば、新人を起用するという考え方は初期段階からありました。もちろん 20年前にフォウやサラを演じた声優さんを使う選択肢も検討しましたが、やはり芸能としての映画をお見せしたいという願いと、ファースト以来のキャラクターとのバランスを考えれば、懐し映画にしないために若い声を入れた現在の方向性が決まっていきました。

しかし、その考え方だけで ピンポイントで変えると全体のバランスが悪くなります。そのあたりも含めて藤野音響監督と総合的に検討して考えた上で、今回のキャスティングに固めたわけです。

 オーディションは幅広く時間をかけて行いましたし、声優事務所に対しても「『Z』で新しいキャスティングを探してる」という話もしてきました。カミーユの飛田くんでさえ、オーディションで改めて選び直して決めていったのです。こちらから「あなたでお願いします」と指名した場合、「イヤでもやれよ」という強権発動にもなりかねませんから、広く募集をして、応募されてきた方の中からさらに厳選して決めるというかたちをとってきました。

――フォウやサラ 、 新しいキャストの芝居の注目ポイントを教えていただけますか?

富野 まず大事なことは、若い声が入っていることで作品がふっくらしたという確かな結果があります。具体的なポイントは、あえて挙げるところがありません。新キャストだけではなく、全体を通して「作ってるようには聞こえない」からです。かなりナチュラルに聞こえますから、ピンポイントとしてはまったく気づかないはずです。ですから、「どうしてこんなに当たり前のように聞こえるんだろう?」というところが、一番の聞きどころと言えるでしょう。

 これは効果音についても同じことが言えます。うまく入れた効果音は、自然過ぎて際だって聞こえなくなるのです。音響関係 スタッフ は、本当によくやってくれました。こうした自然さはどうすれば獲得できるのかは、ぜひみなさんにも考えてほしいところです。

――池脇千鶴さんのサラについては、どうだったでしょうか。

富野 声優の領域だけで考えていくと、小さいところで出っ張りや引っ込みがあるのが気になることがあります。なので、まったく違う声が欲しくなりました。そんなときに池脇さんの声を聞いて、「この人の声は、落ち着いた声と上ずる声と二種類あって安定していないように聞こえる」と思い、もともとキャラクターの性格にブレのあるサラの声に良いのではないかと判断しました。

 ご本人も他の声優ほど安定した発声ではないので戸惑いがあったようですが、生真面目にはめていくと作品が芸能として箱庭的になってしまうと思い、少し「遊んでみたい」と考えて演出しています。欲を言えばもう少し肉感的な声が良かったのですが、それは要求せずに、何よりも「ブレる危険性をはらんでいる印象」を演じてもらえればとお願いしました。

 今回は僕の演出の都合で、池脇発声の二種類の声をコントロールしきれてないところも気がついています。ですが、こういうイントロで入っていけば、第三部で最終的に重要な役割で出てくるサラの芝居も生っぽい感じで締めてもらえるだろうと、演技論としての確かさも見えています。

――それでは、ゆかなさんのフォウは、いかがでしたか。

富野 ゆかなさんについては、彼女は声優でやっていくしかないと思った時期があったらしいので、意識は声優だと思います。彼女自身、「こういう感じ」と決めて かかって オーディションに来たようなので、最初は箸にも棒にも引っかかりませんでした。

 ですが、覚悟を決めて声優でやると決めたプロセスがオーディションで見えてきましたので、「この子は叩けば モノに なるかもしれない」と確信しました。彼女には「このセリフはこうしゃべれ」という具体的なことは言っていません。そのかわり、「声を出すにしても身体を動かすところから入っていった方がいい。そういう発声で演技をしなさい」と言い続けました。「ヘソ下に力を入れた発声法をしなさい」ということです。それで演じてもらったら、ちゃんと 新しい フォウになっていきました。

 手間はかかりましたが、結局はゆかなさんのなかにあった鬱屈感を基盤にした演技を掘りおこしたのです。「本当の私じゃないの」という部分を演出家として引き出しさえすれば、それこそがフォウの本質なので、こちらの勝ちです。このように、演出を積み重ねていくうちに、「この子は、 もっと 化ける」という点もはっきり見えてくるものなのです。

 演技とは、「これだけの芝居で、これだけしゃべればいい」というものでは決してありません。身体を投げ出してやってくれるというところまで来て、初めて役者という存在が使えるようになるのです。それができない人が多いと思います。声優さんは訓練しているので発声は良いのですが、それにだまされて演技に至っていないことも多いと思っています。が、なにより作っていない若さは宝でもありますね。

 今回、池脇さんやゆかなさん をはじめ、いろんな 方に協力していただけたことで、新訳『Z』のキャスティングの幅が広がってきて、とてもうれしいと思っています。僕の立場としては、こちらで良しとしているキャスティングに関しては、暖かく見守っていただきたいという気持ちでいっぱいです。

(次回に続く)

【 2005年9月13日 サンライズ第7スタジオにて/インタビュー構成:氷川竜介】



 

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